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2006年 09月 25日
今回は、インドシナ半島を中心とする、「南進」作戦が、1940年から着々と計画されていたことを、政府資料などを元に解き明かしてゆきます。 靖国神社の「アジア解放のため」という主張が、いかに国民を欺くものであったか、そして今なお見学者を騙し続けているということが、具体的に明らかになります。 今回の冒頭に出てくる 【 その当面の大目標は、フランス領インドシナ(仏印)に日本軍を進出させて、南方作戦の足場を確保することでした。陸軍の南方作戦は、まず英領マレー半島を攻略し、続いてジャワ、スマトラ、ボルネオなど、蘭領東インドに進撃する、というものでしたから、どうしても、仏印を日本軍の前進基地として手に入れる必要があったのです。】 にも、端的に現れています。 そして、この連載第4回では、度重なる御前会議で対米開戦に至る経過や、政府の“論理”を詳しく説明し、靖国派の「ハル・ノートを突然付きつけて来た米国に責任がある」という言い分を完膚なきまでに粉砕します。 【 不破 :この説のでたらめさは、これまで説明してきたことの経過がはっきり示しています。ハル・ノートは十一月二十六日に日本側に示されたアメリカ政府の回答ですが、日本の中国侵略は認めない、南方への侵略も認めないということは、ここで突然示されたものではなく、日米交渉にのぞむアメリカの基本態度として、最初からはっきりしていたことでした。 とくにその最大の焦点をなすのは、中国からの日本軍の撤退の問題で、これが、アメリカは日本の駐兵を絶対認めないが、日本が絶対に譲れない問題だというのは、対米交渉の「最終」案なるものを決めた十一月五日の御前会議で東条首相自身が、声を大にして強調したところでした。】 ぜひ、本編 【第4回 南進作戦と日米交渉】 をお読みください。 ************************ 明るい日本の未来の為に! 人気blogランキングへクリックを! ************************ 以下に、冒頭部分を引用します。 ******************* 新たな野望の実現をめざして 2006年9月24日(日)「しんぶん赤旗」 ――それで、一九四一年が、いよいよ新たな侵略的野望の実行の年になったわけですか。 不破 いや、南進作戦が国策となると、戦争の準備はただちに始まるのです。海軍は、一九四〇(昭和十五)年の九月段階に、対米戦争をふくめ南方作戦の準備をほぼ完了したと言っています。陸軍は、それまで新たな戦線としては北進(対ソ戦)を想定していたわけですから、切り替えに時間がかかるのですが、陸軍も、作戦計画の研究・立案から始めて、その年のうちには、具体的な手を次々と打ちはじめます。 その当面の大目標は、フランス領インドシナ(仏印)に日本軍を進出させて、南方作戦の足場を確保することでした。陸軍の南方作戦は、まず英領マレー半島を攻略し、続いてジャワ、スマトラ、ボルネオなど、蘭領東インドに進撃する、というものでしたから、どうしても、仏印を日本軍の前進基地として手に入れる必要があったのです。 仏印の確保は、まず北部仏印、ついで南部仏印と段階的におこなわれましたが、そのための対フランスの外交交渉を四〇(昭和十五)年六月からはじめて、四〇年九月、一応は「平和的進駐」に成功しました。「平和的交渉」といっても、「仏印側が抵抗した場合においては武力を行使して目的を貫徹する」と政府方針に最初から明記したうえでの交渉で、まさに“武力の威嚇”による交渉でした。名目は、蒋介石政権への援助ルートの遮断などが目的だと説明されましたが、実質は明らかに南進のための布石でした。 「武力を以て貫徹」うたう 不破 次は、いよいよ本命の南部仏印の獲得です。四〇年の十一月に仏印とタイのあいだに国境紛争が起こったのを見て、日本はその「調停」にのりだしましたが、その狙いは見え見えでした。タイには恩を売ってここを日本の軍事的な勢力圏に組み込み、フランスにたいしては南部仏印への日本軍の進出を認めさせることでした。 この時も、最終段階で政府・軍部が決めた方針には、「仏国政府または仏印当局者にして我が要求に応ぜざる場合には武力を以て我が目的を貫徹す」ることを、はっきりうたっていました(大本営政府連絡会議〔六月二十五日〕「南方施策促進に関する件」『主要文書』)。フランス側はふたたび威圧に屈して、七月二十八日、日本軍は南部仏印に進出しはじめます。 こうして手に入れた南部仏印は、四一(昭和十六)年十二月八日の開戦の時、日本軍の予定の計画どおり、マレー半島作戦のための前線航空基地として働きました。 ******************* 【第1回】 【第2回】 【第3回】
by jcpmetal
| 2006-09-25 17:12
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